タイトル画像

スポンサーサイト

--.--.--(--:--)

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

里山の風に吹かれて The woodlands of the wind    徳島 里山の花        



スポンサー広告 トラックバック(-) | コメント(-) | [EDIT]
タイトル画像

剣山、霧氷

2017.01.03(13:19) 477

ke1612300002.jpg

ke1612300008.jpg

ke1612300012.jpg

ke1612300013.jpg

ke1612300015.jpg

里山の風に吹かれて The woodlands of the wind    徳島 里山の花        



タイトル画像

柴小屋山 ヒメシャラの霧氷

2016.12.25(22:51) 476

si16122501111.jpg

里山の風に吹かれて The woodlands of the wind    徳島 里山の花        



タイトル画像

徳島LEDアートフェスティバル2016

2016.12.22(17:06) 475

15433765_1208232509253864_280792855789557264_n.jpg

徳島ライトシティアートナイト チームラボ★光る川と光る森

里山の風に吹かれて The woodlands of the wind    徳島 里山の花        



タイトル画像

剣山、霧氷

2016.12.20(17:38) 474

ke1612150003.jpg

剱神社登山口から三嶺

ke1612150087.jpg

雲海に浮かぶ高城山

ke1612150175.jpg

剣山から望む次郎笈

ke1612150210.jpg

次郎笈登山途中に剣山を振り返る。

ke1612150234.jpg

次郎笈から三嶺へのの縦走路を眺める。

里山の風に吹かれて The woodlands of the wind    徳島 里山の花        



タイトル画像

蜂須賀家のお姫様  波乱の生涯

2016.11.18(17:32) 473

 徳島藩の歴代藩主 蜂須賀家のお姫様は、あまり大河ドラマなどにも登場せず人々の話題になることも少ない。

しかし、魅力的な姫も多く歴史の大きな流れの中で翻弄されながらも、波乱万丈の人生を力強くそして美しく生きた。

蜂須賀のお姫様は多いが、その中で代表的なお姫様について紹介したい。

まずは、大河ドラマなどで少しは知られている蜂須賀正勝の娘「糸姫」。

徳島城を築城した藩祖 蜂須賀家政の妹だ。

糸姫

NHKの軍師官兵衛では、高畑充希さんが可愛いじゃじゃ馬糸姫を演じる。

天正12年(1584年)1月、17歳になる黒田官兵衛の長男長政が妻を娶った。
 相手は秀吉の養女で、蜂須賀正勝の娘、
もともと二人の結婚は、天下人とならんとする豊臣秀吉の元での政略結婚。

子のなかった秀吉は、この正勝の娘を養女格として、天正12年(1584年)1月、有名な黒田 官兵衛の子で17歳になる福岡藩初代藩主黒田長政に嫁がせる。

糸姫。この時11歳だった。

ふたりの間には一人の姫(菊)が生まれる。

糸姫にとっては幸せな時期だったのだろう。

糸は長政とは仲むつまじい夫婦生活を送るが、悲しいことに世継ぎの男子が産まれなかった。

慶長3年(1598年) 秀吉が逝去すると情勢は一変。

文治派の石田三成らと対立を深めていた長政は、同じく三成への憎悪を募らせていた秀吉子飼いの武将、福島正則、加藤清正らとともに徳川家康に接近。

家康の養女である「栄姫」(保科正直の娘)を正室に貰い受けると、それまでの正室であった糸姫を離縁してしまう。

栄姫

軍師官兵衛では吉本実憂さんが、波瀾万丈の歴史に翻弄(ほんろう)される栄姫を演じている。

離縁された糸姫は一人娘を残して泣く泣く実家の蜂須賀家へ戻ることになる。

残された菊姫は、その後、黒田氏の家臣。黒田二十四騎の井上九郎右衛門の息子井上庸名のもとへ嫁いでいる。

「糸姫」との離縁が、江戸時代中期までの黒田家と蜂須賀家の127年に渡る「不通大名」のきっかけとなった。

糸姫はその後、実家の阿波国で暮らし、正保2年(1645年)に死去。戒名は寶珠院殿桃渓僊公尼大姉。

母親の白雲院と共に、眉山山麓の桃渓山臨江寺に静かに眠っている。

次は、蜂須賀家政の娘「万姫」。

天城池田家初代「池田由之」に嫁ぎ「池田由成」を生む。

その「池田由成」の娘「池田熊子」は、赤穂藩浅野氏永代家老家である大石家の嫡男大石良昭に嫁ぎ、忠臣蔵で有名な「大石内蔵助」(大石良雄)を生む。

つまり、大石内蔵助は蜂須賀家政の玄孫にあたる。

その為か、吉良邸への討ち入りに際して、阿波・蜂須賀飛騨守(富田藩主蜂須賀隆重)の申し出により吉良上野介は呉服橋から本所へ移転したと言われている。(呉服橋は警備が厳しく本所のほうが討ち入りには適している。)

堀部安兵衛の「堀部武庸(ほりべ たけつね)筆記」や『江赤見聞記』巻四によれば、吉良邸の隣の蜂須賀飛騨守は、赤穂浪士の討ち入りを警戒していて出費がかさむという理由で老中に吉良の屋敷替えを願い出ている。

討ち入りをしやすくするために蜂須賀飛騨守が老中に願い出て、幕府が吉良を郊外に移したのではないか、そんな噂が江戸に流れたらしい。

元禄15年8月19日には吉良は呉服橋の屋敷を召し上げられて、江戸郊外の本所松坂町に移り住む事になった。

その後すぐ元禄15年12月14日に討ち入りは行われた。

また、浅野内匠頭が饗応役となった元禄14年の翌年、討ち入りのあった元禄15年には饗応役として相馬叙胤(陸奥中村藩主6万石)と共に蜂須賀隆重(蜂須賀飛騨守 阿波富田藩主5万石)が選ばれている。

蜂須賀隆重は饗応役を経験することにより、内匠頭の心情が解ると共に、血の繋がった大石良雄に情が移り、討ち入りに協力したのかもしれない。

大石良雄

池田熊子の叔父である蜂須賀 玄寅の実子 三尾 正長は、従甥である大石良雄が赤穂藩が改易され浪人していた時に資金援助をしている。

そして家政の娘「万姫」の妹「阿喜姫」。

徳川家康の命により、近江彦根藩主・井伊直孝のもとへ嫁ぐ。直孝はその後大阪夏の陣で活躍し、手柄を立てて代々大老職を務めるようになった。

また、家康の遠忌法会で将軍名代として日光東照宮に名代として参詣する御用は、直孝が務めて以降先例として彦根藩井伊家固有の御用となった。

220px-Tokugawa_Iemitsu_and_Ii_Naotaka_in_Nikko.jpg
日光社参の徳川家光と井伊直孝

この婚姻を皮切りに、それ以降も井伊家と蜂須賀家との間では幾度か婚姻が行われた。

「ひこにゃん」は阿喜姫の飼い猫をモデルにしたと言われている。

更にその妹「辰姫

松平康長の次男で徳川家康の甥にあたる松平忠光の正室となる。

忠光との間には、後に上野七日市藩主・前田利意の正室となる二の丸殿を生む。

父の康長は松本藩領安曇郡大町組、池田組、松川組の計1万5000石を忠光に分知させ、支藩として立藩させる計画で、元和5年、千国街道池田宿に若松城の築城が起工されたが、家督を相続することなく寛永6年(1629年)に早世したため沙汰止みとなった。享年32。

「辰姫」も同年に没する。

父である家政は辰の供養のため、徳島県徳島市丈六町にある丈六寺の本堂を再建し、同寺に辰の墓を建てた。法名は実相院殿不見貞心大姉。


そしてその次は、「敬台院」として有名な「氏姫」。

徳川家康の長男「松平信康」と、織田信長の娘徳姫」との間に生まれた娘「登久姫」と、信州松本藩の初代藩主「小笠原秀政」の間に生まれる。

幼名を「万姫」「お虎」と称し、やがて徳川家康の養女となって、伏見城に移る。

木幡山伏見城は秀吉により1597年(慶長2年)に完成した。しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没する。

秀吉の死後、その遺言によって豊臣秀頼は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の徳川家康がこの城に入り政務をとった。

「氏姫」が家康の養女となり、伏見城に入ったとされるのはこの頃だろうか。

木幡山伏見城は、1600年8月に行われた関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いで落城した。

「氏姫」は伏見城が落城寸前の1600年1月、9歳のときに徳島藩初代藩主蜂須賀至鎮に嫁いで、徳島藩第二代藩主蜂須賀忠英そして三保姫(岡山藩第二代藩主池田忠雄の正室)と萬の方を生む。

伏見城落城前に至鎮に嫁ぎ伏見城を出ていた事は、氏姫にとって幸いだったといえる。

蜂須賀家は豊臣恩顧の織豊大名であり、そこの嫡男(跡継ぎ)と徳川家の婚姻というのは、豊臣家への反目と受け取られかねない。

そしてこれは当然、豊臣家の許可のない婚姻であった。(大名同士の婚姻には豊臣家の『許可』が必要だった)

家康は大名同士の婚姻を勝手に行ってはならないとする秀吉の遺言を破り、福島、黒田、伊達らにも縁組を斡旋した。

関ヶ原の戦いの直前、蜂須賀家政(号・蓬庵)は阿波国を豊臣家に返上し、高野山にて出家。

家康の上杉景勝征伐に、至鎮はわずか数騎の兵を率い、氏姫と縁組間もない14歳で出陣した。

石田三成が挙兵すると、小山評定において、妻の氏姫が小笠原秀政の娘で徳川家康の養女である事を理由に東軍に参加を表明し、関が原戦においてて武功を挙げた。(少ない戦力で大した戦果はあげなかったと思われるが、東軍に参加したことが評価された)

その為、阿波国は再度、蜂須賀家が治めることとなった。

その後、至鎮は大坂の役において、2代将軍徳川秀忠より7つもの感状を受ける働きをした。

これにより淡路一国8万1千石を与えられ、25万7千石を領する大封を得た。

氏姫は、蜂須賀に嫁いでからは日精に深く帰依した。

大石寺御影堂の建立寄進、江戸鳥越・法詔寺建立、大石寺朱印状下附の実現、総本山二天門の建立、日精の公儀年賀における乗輿の免許、大石寺基金七百両の寄進、「細草檀林」設立に当たっての支援などに貢献したと言われている。

法華宗の信徒であったことで知られており、日蓮正宗との関わりは深い。

蜂須賀家に嫁いだ時、化粧料として3000石をあたえられていたのが藍住町の矢上であり、もともと禅宗のお寺だった矢上の正法寺は、敬台院により法華宗に改められた。

その時村人全員が法華経に改宗したと言われている。

その為、正法寺にある地神塔には、農業守護神の替わりに「百穀苗稼 甘蔗葡萄」等の『法華経』の経文が刻まれている。

そして正保2年(1645年)に江戸の法詔寺を阿波に移して敬台寺を創立した。

寛文6年(1666年)に死去し、敬台寺に葬られる。法名は敬台院妙法日詔大姉。

徳島城表御殿庭園の大きな青石が割れていることに付いて、吉川英治の鳴門秘帳では、幕府の陰謀で氏姫が至鎮に毒を盛ったとされているが、実際には夫婦睦まじく有馬温泉などに一緒に出かけたとの話も残っている。

敬台院


そして「三保姫」は、蜂須賀至鎮と正室・氏姫の長女として生まれる。

その後、岡山藩主・池田忠雄に嫁ぐ。

 池田忠雄は、播磨姫路藩主・池田輝政の三男。母は徳川家康の次女・督姫。慶長7年(1602年)10月28日、姫路城で生まれる。
淡路国洲本藩主、のち備前国岡山藩第2代藩主。鳥取藩池田家宗家2代。
 徳川家康の孫に当たることから慶長15年(1610年)、9歳で淡路洲本城に6万石の所領を与えられたが、岡山藩主である同母兄・忠継が17歳で早世したため、その跡を継いだ。
 洲本藩は廃藩とされ、淡路一国は徳島藩の蜂須賀至鎮にあたえられた。

 「三保姫」は、寛永7年(1630年)、忠雄との間に長男・勝五郎(後の鳥取藩初代藩主)を出産。寛永9年(1632年)、次男・勝三郎を出産した。長男・勝五郎は3歳で鳥取藩初代藩主となり、元服して池田光仲と名乗り、紀州藩主・徳川頼宣の長女・茶々姫(因幡姫)と結婚した。
 以後、鳥取池田家と紀州徳川家との姻戚関係が継続した。

法号は芳春院殿妙囿日香大姉。墓所は岡山県岡山市にある清泰院。

 そして、「三保姫」の妹「萬の方」。

 旗本奴として有名な「水野成貞(直参旗本3,000石)」の伊達姿に一目惚れして13歳で嫁ぎ、町奴の幡随院 長兵衛を殺害したことで有名な「水野成之」(水野十郎左衛門)の母となる。

十郎左衛門切腹後、お家は改易、萬姫は阿波へ帰って69歳で没する。
丈六寺に眠っている。

200px-Mizuno_Jurozaemon-Ichikawa_Sadanji_I-Kunichika_Toyohara.jpg

また「登久姫」の妹「熊姫」は、播磨姫路藩初代藩主「本田忠政」に嫁いで、登久姫の子「小笠原忠脩」の正室になる「亀姫」を生む。

亀姫の夫「小笠原忠脩」は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣 天王寺・岡山の戦いで父と共に豊臣軍と戦うも敗死した。享年22。

長男の長次が幼年であったため、小笠原氏の家督は弟の忠真が継ぐこととなり、忠脩の正室亀姫は家康の命で忠真に再嫁した。

忠真は、島原の乱の際には長崎守備の任を果たし、剣豪・宮本武蔵が最も長く仕えたといわれる。

娘の「繁姫」は、従兄にあたる蜂須賀忠英の正室に入り、寛永7年(1630年)に蜂須賀光隆(3代徳島藩主)、寛永11年(1634年)に蜂須賀隆重(初代富田藩主)を出産する。

姉の登久姫から氏姫へと続く蜂須賀家にまた血が帰ったとも言える。

また熊姫は続いて、延岡藩初代藩主「有馬直純」の正室になる「国姫」を生む。

国姫は福島藩主堀忠俊に嫁いだが、慶長14年(1609年)春、忠俊が改易となったので離縁した。

慶長15年(1610年)11月、有馬直純に再嫁した。

国姫はその際に直純の妻であったキリシタン大名小西 行長の姪のやはりキリシタンであった「マルタ」を離婚させている。

有馬直純もキリシタンであったが、江戸幕府による禁教令に従い改宗し、領内のキリシタンを迫害した。

また、慶長18年(1613年)4月25日には、父とその後妻・ジュスタの間に生まれた8歳と6歳の異母弟(フランシスコ(富蘭)とマティアス(於松))を殺害している。

また、天草・島原の乱においては、地理に明るいことから4000名近い軍団を率いて征伐軍に加わり、乱を起こした自らの旧臣や元領民と対決した。

国姫は直純の改宗を勧めたと言うが、その後の残酷なキリシタン迫害や殺害を見て国姫は悲しんだかもしれない。


その他にも蜂須賀のお姫様は、多くの藩主に嫁いでいる。

きっと多くの物語があったことだろう。

いつか、このお姫様達について書いてみたいと思う。

それにしても複雑な関係。

チョツト頑張って相関図を書いてみた。

この図を見ていると、江戸時代の長きに渡り蜂須賀のお姫様が隠れた歴史を作っているような気がして夢が広がる。

新蜂須賀家系図

里山の風に吹かれて The woodlands of the wind    徳島 里山の花        



  1. スポンサーサイト(--/--)
  2. 剣山、霧氷 (01/03)
  3. 柴小屋山 ヒメシャラの霧氷(12/25)
  4. 徳島LEDアートフェスティバル2016(12/22)
  5. 剣山、霧氷(12/20)
  6. 蜂須賀家のお姫様  波乱の生涯(11/18)
前のページ 次のページ
前のページ 次のページ
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。